書評

2019年1月 3日 (木)

書評:中央銀行―セントラルバンカーの経験した39年

日本銀行前総裁、白川方明氏による大著。昨年内になんとか読み終わっていたのですがなかなかブログエントリにできずにおりました。

まずなんといってもそのページ数。841ページあります。全体は3部構成となっており、第1部が総裁就任まで、第2部が総裁時代、そして第3部が「中央銀行の使命」となっているのですが、白川氏自身の経験を語る部分(第1部と第2部)とその経験を通した白川氏の中央銀行論(第3部)の大きく二つに分かれているといえます。

総裁を含む日銀マンとしての白川氏の経験は1972年からスタートしているので、1980年代のバブルの拡大とそこからの崩壊、1990年代末~2000年代初頭の金融システム危機、2008年の総裁就任直後からはリーマンショックに代表されるグローバル金融危機とそれに続く欧州債務危機、2011年の東日本大震災と、金融システムの安定を担う日本銀行にとってはまさに激動の時期を過ごしてこられたことが自身の体験として生々しく(でも白川氏らしい冷静な筆致で)書かれています。

しかし、このような中で比較的目立ったのが、1998年の日本銀行法の改正に1章を割いて書かれていたことです。特に、この改正日本銀行法の下で明記された「中央銀行の独立性」の解釈については、改正法の施行以降もさまざまに検討を深めていたことがわかります。

金融政策について独立性を保ちつつ(つまり政府の言いなりにならず)専門家としての責任を全うするための努力を怠らない一方で、日本銀行職員が民主的手続きにより選ばれた存在ではないことを踏まえた謙虚さを持たねばならない。白川氏がそのバランスの中でどうあるべきかを常に意識していたことが本書全体から感じられます。白川氏の前任総裁の福井氏が「アートの人」、対して白川氏が「サイエンスの人」と言われたりしますが、本書を読むと「サイエンスの人」らしく思索を深めて政策スタンスを決めていたであろうことが伺えます。

また、「失われた10年」「失われた20年」と言われるようになってからは、日本銀行に対する批判が強まり、政治からの金融政策への介入的発言も多くなってくるのですが、このことに対しての戸惑いや反発のトーンが本書ではしばしば見られます。特にデフレから脱却できないことが日銀の無策として批判されることがありますが、それに対してデフレという単語が適切に定義されないまま使われていることに困っている様子を読み取ることができます。

結局、多くの国民がデフレという言葉からイメージしていたのは、雇用不安や将来の生活に対する不安であり、「デフレ脱却」とは、そうした状態が良い方向に向かうようにしてほしいという気持ちの表明であった。

経営学者の三品和広は、「キーワードには思考を止める力がある。何となくそうだなと人々が受け容れた次の瞬間から、あらためて「なぜ」を問うことなど許されない空気ができてしまうのである」と述べているが、「デフレ」という言葉はまさにそうした効果を持っていた。

このような戸惑いは他にもいわゆるリフレ派について述べられています。

「大胆な金融緩和を行えばデフレは解消する」という「リフレ派」や「期待派」の主張は、データにもとづいて反証することが不可能な命題であったことも対応を難しくしていた。マネタリーベースの著しい増加は国会等でも頻繁に取り上げられたが、当時もリフレ派の主張どおりの結果をもたらしていなかった。だがその場合でも、「マネタリーベースの増やし方が不十分」、「効果的な情報発信を日本銀行が行わなかった」、「増やさなかったら状況はもっと悪くなっていた」という主張がなされるのが常であった。結局、反証不能な命題である以上、議論はいつまでも平行線をたどらざるをえなかった。

こういった「デフレの定義の不明確さ」や「リフレ派の反証不能性」といったあたりのコメントがいかにもサイエンスの人らしいのですが、それらに対する嘆きっぷりが(サイエンスの人でありながら)妙に人間くささを感じさせて親しみをおぼえます。

さて第1部・第2部での白川氏自身の経験を踏まえて「中央銀行の使命」について述べられる第3部ですが、上述のとおり、きっちり思索を深めて論理だてて説明がなされ、しかしところどころ嘆き・ぼやき・反発といった人間くささがにじみ出る第1部・第2部に続く部分として、まるで眼前で白川先生の講義を聴いているような気分になります。その内容は多岐にわたりますが、中でも印象的だった、セントラルバンカーとはどのような存在かということを述べた一節を引用します。

選挙によって選ばれたわけではない一群の専門家(unelected officials)が、国民生活に大きな影響を与える政策を実行する権限を行使できるのはなぜなのだろうか。(略)実質的には、私は2つのことが大事だと思っている。ひとつは物価の安定や金融システムの安定の重要性に対する国民の理解と支持である。(略)もうひとつは、中央銀行という組織やそこで働く中央銀行の役職員、セントラルバンカーに対する信頼である。

中央銀行や中央銀行家(セントラルバンカー)の仕事を説明するために、他の職業が比喩的に用いられることは少なくない。(略)
類似した職業を敢えて探すとすれば、私は医者ではないかと思う。医者が人間の健康回復を目指すのと同様に、中央銀行は経済の健康、つまり物価の安定と金融システムの安定を目指すという点で似ているが、最大の類似点は、自らの提供するサービスのユーザーとの継続的な信頼関係なしには、仕事が成立しないことである。

これは国民生活への影響度こそ違うものの、セントラルバンカーに限らず、専門家と呼ばれる人々が常に意識すべき一面を表しているように思います。

2018年10月30日 (火)

書評:保険業界戦後70年史

(2018.11.5 社名の誤りを訂正しました。ご指摘ありがとうございました。)

戦後の生損保経営史をつづった本。これはマニアックですよ。

戦争被害からの第二会社の設立から高度経済成長、バブルを経て、失われた20年までの生保・損保業界が詳しく述べられています。

著者の九條守氏はおそらく損保業界の人なのでしょう、どちらかといえば損保のほうが詳しく書かれていますが、生保も、特に営業体制の歴史が概観できたのは有益でした。

明治の創業期の生保の営業は、 生命保険事業というものに関する世間の理解がまだ浅いことを理由に「名家・紳商等」、つまり知識層・富裕層を相手にした代理店扱が主であったとのことです(ただし第一生命は経費節減のため代理店扱を採用しなかった)。これに対して小口・月掛の簡易保険事業が国による独占事業として営まれていたわけですが、戦後、国による独占が解除されても、事業費効率の観点から民間生保各社は小口・月掛への進出をためらっていたという話は耳新しかったです。

また、このブログでも以前に取り上げた「戦争未亡人の雇用による女性営業職員の増加」が俗説かどうかという話ですが、本書では上記の小口・月掛への進出に関連して、以下のように書かれています。

生命保険各社の「月掛保険」は販売好調だったのですが、やはり当初懸念したとおり、この毎月の保険料を集金する業務が、契約件数が増加するに従って、保険会社の悩みの種になってきました。(略)

そこで、生命保険会社は、保険料の集金業務に特化したパート従業員を雇用することにしました。これらのパート従業員は、主に戦争未亡人が採用されました。終戦直後で働き口も非常に少ない状況の中、生活に窮していた戦争未亡人には、集金だけをして報酬を貰える仕事は魅力的でした。(略)

1951(昭和26)年に、明治生命保険は、集金業務をしていた女性パート従業員に保険募集も任せ、女性外務員として営業活動を行うことを始めました。その際、明治生命保険は、米国プルデンシャル社と提携し、同社の「デビット・システム」を導入しました。(P88-90)

米山先生の「戦後生命保険システムの改革」では女性営業職員の増加が昭和30年代に入ってからとのヒアリングに基づいていることを考えると、戦後すぐは戦争未亡人は営業ではなく集金を行っており、昭和26年から会社が営業への活用も行うようになったという本書の記述はいろいろとつじつまが合います。

他にも興味深く読んだ部分は多いのですが、いくつか残念な点が。

まずは誤植が多い。「ジブラルタ生命」が「ジブラルタル生命」になっていたり、「アメリカン ファミリー ライフ アシュアランス カンパニー オブ コロンバス日本支社」が「アメリカン・ファミリー・アシュアランス・オブ・コロンバス日本支社」になっていたり「更生特例法」が「更正特例法」になっていたり。

また、相互会社の資金調達について

資金調達が、株式会社は自社の株式発行で比較的容易であるが、相互会社は利子返済義務がある基金を機関投資家等から募る必要があり困難。(P30)

とありますが、証券化手法を用いた基金募集が主流になった現在ではやや古い議論かなと思います。相互会社についてはほかにも大和生命の破綻に関連して

相互会社であれば、保険契約者に高リスクの負担を強いるような大胆で無謀な経営は行うことが難しく、安全・慎重に臨むような経営をすると考えられますが、株式会社の場合は、株主が利益の最大化を求めるため、ハイリスク・ハイリターンの危険な経営をするおそれがあるというのです。これは、株式会社化が裏目に出て、株式会社化が破綻の要素となった不幸なケースだったのかもしれません。 (P295)

と書かれているのですが、1997~2000年に破綻した生保の多くは相互会社でしたよね?

そして一番首をかしげたのはこの部分。

1999(平成11)年度の時点における生命保険会社の保険料等収支状況(保険料等収入から保険金等支払金を差し引いた額)を見ると、大半の会社(日産生命保険は既に破綻)はマイナスであり、「逆ザヤ」状態でした。プラスを維持している生命保険会社は、大手は日本生命保険と安田生命保険の2社、中堅生命保険会社は太陽生命保険、大同生命保険、富国生命保険の3社だけだったのです。 (P160)

こんな「逆ザヤ」の定義は、少なくとも私は聞いたことがありません。百歩譲ってネットキャッシュフローを簡易的に算出しようとしたのだとしても、事業費と資産運用からのキャッシュフローが抜けてますし…

ちなみに「生命保険会社のディスクロージャー虎の巻」では、生命保険業界の逆ざや額の定義は次のようになっています。

順ざや/逆ざや額=(基礎利益上の運用収支等の利回り-平均予定利率)×一般勘定責任準備金

まあそんなわけで財務的な部分はちと首をかしげる部分もあるものの、保険業界の歴史は多くが公式資料に基づいた「カタい」話になりがちなところ、護送船団行政の中での商品認可に関する大蔵省(当時)と各社の綱引きであるとか、2000年前後における生損保両方を巻き込んだ業界大再編の構想といった『業界ウラ話』的な要素も多分に含まれていて、楽しく読ませていただきました。

2017年3月 6日 (月)

書評『「原因と結果」の経済学』

この本のおもしろさは、目次を見ていただければ一目瞭然でしょう。

  • 第1章 根拠のない通説にだまされないために
  • 第2章 メタボ健診を受けていれば長生きできるのか
  • 第3章 男性医師は女性医師より優れているのか
  • 第4章 認可保育所を増やせば母親は就業するのか
  • 第5章 テレビを見せると子どもの学力は下がるのか
  • 第6章 勉強ができる友人と付き合うと学力は上がるのか
  • 第7章 偏差値の高い大学に行けば収入は上がるのか
  • 第8章 ありもののデータを分析しやすい「回帰分析」
  • 補論① 分析の「妥当性」と「限界」を知る
  • 補論② 因果推論の5ステップ
  • おわりに

2つのデータの間に相関関係が観測されることはしばしばありますが、それが必ずしも因果関係をあらわすものではないことは、このブログをご覧になるような方々であればご存知だと思います。本書は、因果関係の有無を検証する「因果推論」をテーマとしています。

取り上げられた内容が身近な点はレヴィットとダブナーのベストセラー「ヤバい経済学」を彷彿とさせますが、本書はそれらのトピックをそれぞれ因果推論の手法にきちんと結びつけて説明しているところが素晴らしいです。例えば、投資クラスタではおなじみの「ジブリの呪い」がいきなり出てきます。

宮崎駿監督率いるスタジオジブリの映画が日本のテレビで放映されると、アメリカの株価が下がるという「ジブリの呪い」の話を聞いたことがある人もいるだろう。この法則は、アメリカの『ウォール・ストリート・ジャーナル』までもが取り上げて話題となった。これはまさしく、「まったくの偶然』による見せかけの相関の典型例だ。

「ジブリの呪い」をご存じない方はこのあたりの投資家の阿鼻叫喚をご覧ください。

さて、本書では喫煙にまつわるトピックが多く取り上げられていますので、そのうちいくつかをピックアップしてみましょう。

一つは受動喫煙と肺がんとの因果関係に関して国立がん研究センターが発表した内容にJTが反論し、さらにその反論について国立がん研究センターが再反論したというものです。国立がん研究センターのほうは「メタアナリシス」という因果推論の正統な手法を用いていることから、再反論でJTはコテンパンに論破されています。

もう一つは受動喫煙防止のための喫煙規制強化の影響です。アルゼンチンでの規制の分析の結果、喫煙規制を厳格に強化した地域とそうではない地域との間に、売上には統計的に有意な差はなかったそうです。いっぽう日本では、神奈川県の受動喫煙防止条例による経済効果についての調査を三菱UFJリサーチ&コンサルティング社が発表していますが、そこではマイナスの影響となっています。この点に関してちょっとつぶやいてみたら、なんと著者ご本人からコメントが返ってきました。

最近になって同様の調査が富士経済から公表されていますが、これもマイナスの経済影響となっています。

これらについては著者の津川氏のご指摘のとおり因果推論を正しく行っていないということもあるのですが、それ以上に「喫煙規制強化は外食産業に打撃を与えるだろう」という思い込みが前提になっていることが問題のように思われます。少なくともアルゼンチンの事例は、そういった直感に反する結果が出ています。

このように、因果推論を行うことによって「直感的に予想されていたことに対し、実際にはそうではなかった」ということが明らかになる(逆に因果関係を明らかにできない他の手法では予想に反する結論が出てこない)ことが最大の意義ではないかと思います。上に挙げた事例の他にも、直感や予想に反する事例が豊富に載っており、読み物としても、因果推論の学習の入り口としてもおすすめの本です。

2015年1月11日 (日)

書評「12大事件でよむ現代金融入門」

この年末年始はいくつかの良書に出逢えましたが、これもその一つです。

まずは目次を挙げましょう。

  • 第1章 ニクソン・ショックの衝撃-現代経済が"金離れ"したとき
  • 第2章 中南米危機にみる累積債務問題の重石-原油が世界をかき回す
  • 第3章 プラザ合意の落とし物-強いドルはアメリカの国益?
  • 第4章 ブラック・マンデーの悪夢-リスク・マネジメントの始まり
  • 第5章 日本のバブル崩壊による痛手-邦銀の凋落がはじまった
  • 第6章 ポンド危機で突かれた欧州通貨制度の綻び-ヘッジファンドの台頭と通貨制度の脆弱さ
  • 第7章 P&Gなど事故多発…デリバディブズの挫折-金融工学の暴走とリーマン危機への伏線
  • 第8章 アジア通貨危機で再び新興国の連鎖破綻-新興国リスクとドル依存体制の限界
  • 第9章 ITバブル崩壊の狂騒-「ニュー・エコノミー」という幻想と変貌する金融機関
  • 第10章 リーマン危機に連なる"ゲーム"-アメリカ型金融モデルの崩壊
  • 第11章 ギリシャ財政不安でユーロ絶体絶命-ユーロ圏の南北問題と問われつづける共同体理念
  • 第12章 終わらないフラジャイル・ワールド-次なる震源地はどこだ?

金融のリスク管理に携わっていると、過去の実績に基づいて何かを行う、ということはしばしば批判の対象となります。例えばヒストリカル・ボラティリティに基づくVaRはその遅行性からリスク指標としての有効性に疑問が呈されますし、ヒストリカル・ストレスシナリオは「もう一回ブラック・マンデーが起こると思うか?」と冷笑されます。

しかし、本書を読んで思うのは「歴史は繰り返す」であり、著者もそう書いています。

つぶさに市場経済を観察しながら抱くのは、金融にはあまり学習効果が効かない、という認識です。経済社会は何度も危機に直面し、そのたびに教訓を得たはずなのに、数年後にまた似たような危機を繰り返している

もちろん、それはまったく同じことがもう一度起こるということではありません。ただ、振り返ってみれば似たような事象は過去にいくらでも起こっているのです。

たとえば直近の欧州通貨危機。これは、「金融政策に強い『縛り』がある中で財政政策しか対処方法を持たない国は、金融環境の変化に対してきわめて脆弱である」という状況から生じたと考えれば、ドルペッグであることによる金融政策と財政政策の間隙をヘッジファンドに突かれたアジア通貨危機と同じです。そのように考えると、ユーロの危機は、金融政策と財政政策という二つの手段を取りうるようにならない限り(つまりユーロという通貨を放棄しない限り)抱えつづけるとも考えられます。

日本においては歴史的な低金利となっていますが、過去に起こった金利の急騰(=国債の暴落)として、タテホ・ショックなどがあります。

その後も長期金利は超低水準で推移しましたが、徐々に「国債バブル」への警戒感が強まり、一方的に金利が低下する地合いは終焉を迎えます。そして9月に、鉄工所の耐火煉瓦材料として利用される電融マグネシアの世界的メーカーであったタテホ化学工業が、国債先物で286億円の損失を出したことが明らかになりました。損失額は同社年間売上高の約4倍にものぼるといわれました。この事件は「タテホ・ショック」として、海外でも報道されるほどの注目を集めます。本件も氷山の一角にすぎないのではないかという思惑が広まって、株式市場や債券市場が急落したからです。長期金利は、5月の2.55%から10月にはなんと6%以上に跳ね上がったのでした。

この金利低下は元々黒田日銀のQQEによって一層強まっていますが、これにはリスク性資産(特に株式)の価格上昇という副作用が伴っています。アベノミクスの喧伝のされ方もあって、これが誤ったメッセージとなっている可能性に著者も懸念を表明しています。

時間を買うはずの金融政策が、「金融政策によって、以前のような経済成長率を取り戻せる」という誤ったメッセージを人びとに与えている側面は否定できないのです。

また著者は、ウクライナ問題へのロシアの対応から、冷戦はまだ完全には終結していない、との認識を示します。

つまり、現在の私たちは、超金融緩和時代の終焉とポスト冷戦時代の終焉という2つの巨流が、一気に交差する局面に立たされているのです。そうした中で、将来には、今までにはなかったパターンの危機が起きる可能性があります。

しかしながら、これまで「歴史は繰り返す」をずっと経験してきたわれわれにとって、今までになかったことが今後起こりうるかもしれないにせよ、学ぶべきは歴史であると思われます。

本書は、その時代を知らない者にとってはまさにタイトルのとおり「入門」であり、その時代を知る者にとっては再び当時をひもとくきっかけになる本だと思います。

2015年1月 2日 (金)

書評「システム障害はなぜ起きたか」

サブタイトルに「みずほの教訓」とあるとおり、みずほフィナンシャルグループが起こしたシステム障害の原因を考察するものです。

といっても、実はこれ、2002年の出版です。みずほは過去に2度、大規模なシステム障害を起こしていますが、これは最初のシステム障害に関するものです。

日経コンピュータの連載をまとめたとあって、他の単なる批判本とは一線を画しています。そのことは、本書の出版の趣旨に如実に表れています。

水に落ちた犬を皆でたたくのは、日本のメディアの悪い癖である。 過去の例を見ると、事故や障害の最中は報道が加熱するが、収束するとなんとなくうやむやになっていく。読者もまた、自分にも同じトラブルが起こりかねないことを忘れがちだ。将来に備えた教訓を引き出していないから、数年後に同じことがまた繰り返される。

こうした事態を避けるために、情報化の総合誌である『日経コンピュータ』編集部は、本書を緊急出版する。

内容は、いわゆるメインフレームに詳しくない者にも分かりやすく書かれています。例えば銀行システムの肝となる勘定系システムについて、その複雑さ・膨大さは次のように書かれています。

本稼働から15年あまりが経過した勘定系システムは都市銀行の場合、利用しているコンピューター・プログラムを見ると、全体で1億行(ライン)に迫るまで膨らんでいる。1人のエンジニアが1カ月仕事をしたとして、開発できるプログラムは、500〜800行と言われる。単純計算すると、1億行を開発するには、1000人のエンジニアが10年間開発を続けないといけない量である。

このような大規模なシステムの統合に関して、日経コンピュータの記者は、会見の場面で、経営トップのシステム統合を現場任せとする認識の低さに危機感を持ちます。案の定、現場では3行による綱引きが起こっていました。旧富士銀のシステムのほうが旧第一勧銀のシステムよりも優れていることが認識されながら、旧第一勧銀の勘定系システムを残すことについて、行司役を求められたコンサルティング会社がレポートを書きます。

確かに両行の勘定系システムには若干の差はあるものの、この差は2002年4月に新銀行を作るまでに解消できる。つまり、第一勧銀の勘定系システムを機能強化して、富士銀と同等の機能を盛り込めばよい。よって、「第一勧銀と富士銀のシステムに有意差はない」という理屈を作ったのである。A.T.カーニーは、こうした主旨の報告書を提出した。(略)

三行はこの報告書作成料として4000万円を予定していたが、割り勘にできないという理由で、3900万円に値切った。

そして2002年4月1日のシステム稼働を迎え、障害が発生します。システム部門は不眠不休で作業を続けたものの、口座振替の未処理データが完全になくなるまで18日を要することとなりました。

このあたりのトラブルの詳細は本書を読んでいただければいいのですが、本書の白眉は、みずほの事例にとどまらず、成功事例をきちんと取り上げていることです。

成功事例の筆頭に上がっているのは北洋銀行です。この銀行は、破綻した北海道拓殖銀行の事業継承に伴い、なんと旧拓銀のシステムに一本化します。事務とシステムは分かちがたく結びついているので、このことは、社内用語から事務のやり方から何から、北洋銀行側がすべて旧拓銀方式に合わせるということを意味しています。このことが可能になったのは、統合を率いたのが経営トップ(当時副頭取、出版時点で頭取)であったこと、それにシステム以外の部門の理解を得られたこととされています。

この他にも東京三菱銀行(システム部門と利用部門からなるプロジェクトチームを組成し、両者の意思疎通をスムーズに実現)やUFJ銀行(事務部門が事務変更の受け入れを早期に表明)といった事例が挙げられています。

このように成功事例と失敗事例の双方を取り上げることで、実務に携わる人間にとっては何を抑えておかなければならないかがより明確になっています。

けっこう古い本(図書館で借りたのですが、ちょっと手が痒くなるくらい)だったのですが、いや、とても実践的で参考になる良書でした。

こちらは2度目のシステム障害の際に書かれた本。同じく担当者目線という点でとても参考になる本です。

2013年12月 1日 (日)

2025年?

半藤一利さんの「昭和史 1926-1945」という本を読みました。

太平洋戦争終了までの昭和史を概観しています。講演を元にした本のようなので読みやすくはありますが、史料の取り扱いが精緻とはいえず、また独特の史観が入っているため好みは別れるかもしれません。私は楽しんで読みましたが全部の内容を鵜呑みにはできないでしょう。

さて、この本の最初に、次のようなことが書かれています。

一八六五年から国づくりをはじめて一九〇五年に完成した、その国を四十年後の一九四五年にまた滅ぼしてしまう。国をつくるのに四十年、国を滅ぼすのに四十年、語呂合わせのようですが、そういう結果をうんだのです。

こうやって国づくりを見てくると、つくったのも四十年、滅ぼしたのも四十年、再び一所懸命つくりなおして四十年、そしてまたそれを滅ぼす方へ向かってすでに十何年過ぎたのかな、という感じがしないわけではありません。いずれにしろ、私がこれから話そうという昭和前半の時代は、その滅びの四十年の真っただなかに入るわけです。

ここで近代日本の起点とされている1865年は、「京都の朝廷までが日本を「開国する」と国策を変更した」時、とされています。この本には具体的には書いていませんが、孝明天皇がイギリス・フランス・オランダ・アメリカの4ヶ国に対する通商条約の勅許を与えたこと(慶応元年10月5日)のことを指すのでしょう。

個人的にはこの1865年はややこじつけの感があるように思うのですが、たしかに1865年を起点として40年を一区切りと見ると、1905年、1945年と来て、次は1985年ということで、ちょうどバブル前夜にあたります。つまり、1865年から始めた国づくりが1905年をもって一度完成し、そこからの凋落が40年で、1945年を起点に国の再生を始め、1985年にはまた頂点を迎えた、と考えてもいいでしょう。

さてそうなると現在は再度の凋落の只中にあり、次の底は2025年ということになるのですが、その時に起こることはこの本に書かれているかもしれません。

そうです。「日本国債のデフォルト」です。

原発問題を一時的な要因と考え、東日本大震災以降の期間を除外した経常収支のトレンド・ラインは、経常収支の黒字が減少傾向にあることを示す。狩りに、トレンド・ラインが継続すると仮定すれば、2020年頃に経常収支は赤字化する。(P254)

このように財政赤字のファイナンスをフローの面からみると、先行き、2020年頃から、外国投資家に資金調達を頼らなければならなくなると考えられる。(P254)

いずれ、政府債務残高は家計と企業の金融資産残高を上回ると考えられる。仮に、①政府債務残高の予測は、内閣府の「経済財政の中長期試算」に基づき、②企業の金融資産残高は横ばい、③家計の金融資産残高は、増減が高齢化率に逆相関すると仮定した場合、政府債務残高が家計と企業の金融資産残高を上回るタイミングは2025年頃になる見通しである(図表8-2)。
ただし、家計と企業の金融資産が全て国債等の政府債務に向かうという強い仮定を置いた数値である。そのため、現実には、2025年よりも早いタイミングで、財政赤字のファイナンスを外国投資家に頼ることになる。 (P255)

外国投資家に財政赤字のファイナンスを頼る時、日本国債利回りは財政リスクプレミアムが課されることになる。その時期は2020~2025年頃になり、財政破綻に至る(P263)

念のため言っておくと、本書自体では日本国債のデフォルトが2020~2025年頃と明言されているわけではありません。2020~2025年頃には財政赤字のファイナンス(つまり日本国債の引き受け手)を外国投資家に頼らざるを得なくなり、それが将来的な財政破綻に至る、と書かれています。したがってデフォルトはもっと先かもしれません。

しかし、消費税増税の議論を見ても、歳入の強化が容易にはいかない(あるいは増税を緩和するための支出増が発生してしまう)ことを考えると、2025年から大きくずれることもないようには思われます。

さらに、本書の出版は2013年6月ですので、それ以降に支出が膨らむイベントが発生しています。そうです、2020年の東京オリンピックです。そのように考えると、2025年の日本国債デフォルトというのもあながち空想の産物とは言えないかもしれません…

2013年11月 1日 (金)

書評:保険会社の「経済価値ベース」経営

こんなタイトルの本、買わないわけにはいきませんな。

本書は保険会社をめぐるERMやORSAといったリスク管理やソルベンシー規制の最新動向がまとめられています。監査法人が書かれているだけあって、IASBやFASBをはじめとした財務報告に関する検討の最新動向も載っています。

その財務報告の一環として、エンベディッド・バリュー(EV)の状況についても掲載されていたので、まずはそこを眺めてみました。

EVに関する記述は340ページから始まるのですが、最初のページからツッコみたくなる箇所が。

(将来利益を)リスクフリーレートで割り戻す

P340 図表4-4-1

いえいえ、EVの一般論を述べるなら「リスクフリーレート」はまずいでしょ。むしろ「リスク割引率」ですよ。

で、次にP345の図表4-4-3には日本のEV開示での必要資本の設定水準が載っているのですが、「400%」とか「600%」といった数字しか載っていません。まあ、これを読む人だったら、この数字がソルベンシー・マージン比率であることは分かるのでしょうが、本として説明不足の感は否めないですね。これでは「必要資本はソルベンシー・マージン基準をベースに設定するものだ」と誤解されかねません。

それにこの表では、T&DグループがEEVになってます。T&Dグループは2013年3月期決算からMCEVに移行しているのに。(まあ、本書の序文には「本書に記載の内容は、2013年3月末時点までに公表されている資料に基づいて記述されている」とあるので、あながち間違いとは言えませんが、他の部分で2013年7月時点の情報が入っていたりするのを見ると、ちゃんとアップデートしてくれんかな、と思ってしまうわけです。)

それに、EEV/MCEV開示会社としては、三井住友海上あいおい生命と三井住友海上プライマリー生命が抜けてますね。両社とも2012年3月期からEEVを開示しているので、これは完全に「欠落」というしかありません。(さらに言うならば、2013年8月9日にかんぽ生命がEEVを開示しています。)

次に図表4-4-4「オプション性や保証性を有する保険契約の主な例」。

「変額商品の最低保証」が挙げられており、「インザマネーで解約率が低下し、最低保証のコストが上昇する」と説明がなされています。これは正しくありません。最低保証のある変額商品については、運用が良くて最低保証額を上回っている場合(アウトオブザマネー)では運用成果が契約者に帰属し、逆の場合(インザマネー)では運用の損失を保険会社が負って、契約者には最低保証額を支払うことになります。つまり最低保証そのものにオプション性が存在するため、解約率うんぬんは関係ありません。

(2013.11.1追記 「解約率は関係ない」は少々書きすぎでした。正確には、「最低保証付き変額商品について解約率によるオプション性もありうるが、仮に解約率が運用成績によって変わらなかったとしてもオプション性は存在する」ということが言いたかったことです。)

逆に、もう一つ例示されている「利率保証型商品」については、運用成果によって契約者の解約行動が変わらない限り、オプション性は生じません。その意味では、(本文も含めて)記述がなんだかねじれています。

あとはP373の図表4-6-2の見出しが「統合的な財務報告の」で絶筆していたり、P377の「基本原則と内容要素」で「将来未通し」と書いていたり(正しくは「将来見通し」)と、細かいところが多少目につきました。

…うーん、間違いのあら探しになってしまいましたが、最新情報をまとめた本が出るのは大事なんですよね。問題は急いで出版しないといけないことで、校正が不十分なまま出てしまうと。

2013年6月15日 (土)

書評:法の世界からみた「会計監査」

ずっと書評を書かねば書かねばと思っていたのですが、すっかり遅くなりました…

著者はブログ「ビジネス法務の部屋」で有名な山口弁護士です。

本のタイトルからわかるとおり、アクチュアリーはまったく関係ありません。本書の中にアクチュアリーが登場するわけでもありません。しかし、「この議論はアクチュアリーにどう当てはまるか?」と考えながら読むと、いろいろと勉強になります。

本書の副題には「弁護士と会計士のわかりあえないミゾを考える」とあり、弁護士と会計士の思考法の違いが描かれています。私が読んだ中で付箋を貼った箇所をいくつか抜粋してみます。

(会計監査手続の中で)「グレーなことには気づくけど、クロである証拠まで辿りつくことは困難。そこに時間をかけることができるほど潤沢な予算はない」…

…監査論の教科書に職業的懐疑心をもって監査せよ、と書いてあるが、実際にはほとんどの会社がシロなので、シロを前提にしないと会計監査制度が成り立たない、というのも(気持ちの問題としては)納得するところです。(P14~15)

弁護士や医師の守秘義務というのは、それが依頼者や患者の権利(生命、身体、財産等の保護)を最大限度に守るという使命を尽くすために認められています。…

…しかし、会計士には「てkしえつな情報開示に協力する」という公益目的のための使命があることを重視するならば、実質的な依頼者は投資家や株主、会社債権者だと捉えられます。このことを前提とした場合には、会計士の守秘義務はどう考えるべきでしょうか。(P36~37)

(弁護士は)自分の職務怠慢や能力不足が指摘されるような事案であっても、裁判官に敗訴の責任を(依頼者への説明の上では)添加することが容易になります。

しかし会計監査の場面における会計士は最終判断者です。(P58)

職務の誠実性というのは、かなり漠然とした言葉ではありますが、社会から期待された職業専門家としての職務執行に向けられたものです。(P67)

リスク・アプローチといいますのは、監査人が監査リスクを合理的に低い水準に抑えるために、財務諸表における重要な虚偽表示のリスクを評価して、発見リスクの水準を決定するとともに、監査上の重要性を勘案して監査計画を策定し、これに基づく監査を実施する監査手法のことを指します。

…(会計監査)制度を維持するためには、プロのなに恥じないようなレベルの高いものが要求されます。投資家の判断に資する程度のレベルの仕事といえば、一定程度の品質水準をもった監査結果の公表です。この一定程度の品質水準は、被監査企業の重要な虚偽表示リスクの程度に、要求される監査人の労力を勘案して算出されるものです。(P119)

私自身が理解できていないと感じるところがあります。「会計基準」というものはどういったルールなのか、という素朴な疑問です。ルールを決めること、ルールを選択すること、選択されたルールを解釈すること、そのすべてが「会計慣行」のなかに含まれると思うのですが、法律家の頭のなかにあるのは「ルールを選択すること」だけではないか、ということです。(P148)

日本と欧米とでは「リスクコミュニケーション」の手法が異なるため格別の注意が必要、と教わりました。たとえばリコール対応の場合、我が国でも消費者庁の設置によって少しずつ変わってはきているのですが、日本では正確な情報を企業自身が集約してリコール対応の必要性を判断し、対応を決断した時点で情報を開示します。しかしアメリカでは、リコールの是非を企業と市民が一緒になって考えます。(P222)

日本企業はいったん規制が新設されますと、とても従順にこれを遵守するといわれています。過剰な規制の疑いがあったとしても、自らの責任問題に発展することを回避するために、横並び意識によってルールに従います。おそらく現場の実務担当者や監査人にとっては、そのほうが気持ちとしても楽なのかもしれません。しかし、せっかく行政当局が企業の自由な発想を尊重しようとして原則主義を採用したとしても、企業や監査人のほうがこれを拒絶した結果となりますと、これは行政当局にとっては大きな誤算ではなかったかと今でも感じています。

しかも、この行政当局の誤算は、内部統制報告制度だけの問題ではなく、今後の行政規制の在り方として多方面で同様の事態が生じるのではないでしょうか。(P238)

引用をズラズラと書き並べるのは正しい引用の在り方ではないのですが、個々の引用に対してコメントするのが難しいのでご容赦ください。ただ、この本を読みながら、アクチュアリー、あるいはアクチュアリー業務について、考えたところを挙げてみます:

  • 弁護士・会計士は社外者であるのに対し、保険計理人はほとんどが社内者(インハウス)である。
  • 弁護士・会計士資格は国家資格だが、アクチュアリーは民間資格。
  • アクチュアリー(特に保険計理人)は「誰のために」専門職として働いているのか?
  • プライシング・アクチュアリーとバリュエーション・アクチュアリーでは「誰のために」働いているかは違うのか?
  • 「保険計理人の実務基準」はプリンシプル・ベースだろうか、ルール・ベースだろうか?
  • 日本の会計基準、米国会計基準(US-GAAP)、IFRSそれぞれにおける保険負債の考え方の違いは?プリンシプル・ベース/ルール・ベースの違いは?
  • 行政当局にアクチュアリーが絶対的に少ない現状で、(特に保険会社の)アクチュアリーは行政機能の一部を担っているのか、担うべきか?それは「誰のために」働くかという視点と合致するのか、相反するのか?
おそらく、同じアクチュアリーであっても、生保か損保か年金か、商品開発に携わっているか決算業務をやっているか、所属が国内企業か外資系か、などによって、考えるところ・気づくところは大きく違うと思います。ただ、弁護士も、会計士も、アクチュアリーも、専門職として、企業のさまざまなリスクを見る、あるいは対処する役割を負っています。その点で、とてもヒントになることがたくさん得られる書籍です。

2013年3月10日 (日)

書評:医療幻想

こんなのがtwitterのRTで回ってきたんですよ。

大竹先生もご推薦とあらば、読まないわけにいかないじゃないですか。医師であり作家でもある、久坂部羊氏の本です。

副題に「『思い込み』が患者を殺す」とあるので、初めは医者や製薬会社に対する批判の本かと思いました。しかし、「それは幻想だ」という批判の矛先は、医療業界、製薬業界、厚生労働省、医師会のみならず、サプリメントなどの健康産業、一面的なバラ色の情報を広めるマスコミ、そして患者自身とその家族にまで向きます。

驚いたのは、健康診断に関して有効性検証がほとんど行われていないということ。本書の97ページには次のような記述があります。

日本では、健康診断や健康管理が身体に悪いというようなことを考える人は、まずいないだろう。しかし、フィンランドでほんとうのところを確かめるため、大規模調査が行われた。(中略)その結果、15年後には、健康管理をしたグループのほうが、死亡者数、心疾患、がん、自殺のすべてにおいて、何もしなかったグループを上まわったのである(死亡者は健康管理グループが67人、何もしないグループは46人)。

私はこのデータを知っていたわけではありませんが、「ヘタに悪いところが見つかったら気分が悪くなるから人間ドックは受けない」と言って周囲に笑われるほうだったので、このデータはさもありなんという感じでした。

このように書くと「やっぱり病院が金儲けのためにムダな検診を受けさせてるのか!けしからん!」という話になりがちですが、それは患者の側の意識にも問題があるのです。先ほど人間ドックを受けないといって笑われるという話を書きましたが、笑われるといえば、こんな話も載っています(198ページ)。

ある講演会の質疑応答で、80代の女性にこんな質問を受けた。

「わたしは死ぬ前に人工呼吸器をつけられたり、点滴や管を入れられたりしたくないんです。そんなつらい延命治療を受けずにすむ方法があるでしょうか」

私は自信をもって答えた。

「いい方法がありますよ。病院に行かなければいいんです」

すると、会場から笑いが起こった。私は大まじめで答えたつもりだが、聴衆は冗談だと思ったようだ。それほど一般の人は病院に行くことを当たり前のように思っているのかと、改めて幻想の強さに愕然とした。

病院は治療をするところなので、余計な治療を受けたくなければ、病院に行かなければいいんです。しかし人々は少し具合が悪くなっただけで病院に行き、診断を受け、無意味な投薬や点滴を(しかも望んで)受ける。無駄な投薬をしないのが良心的な医師のはずなのに、それを「ダメ医者」と決めつける患者も「幻想」にとらわれている、と著者は言います。

こうして、大したことのない病気の診療のために医師は時間をとられ、多忙になります。さらに「ゼロリスク」を求める風潮が、この事態に輪をかけます。

現在、研修医が当直のアルバイトを行うことは禁止されています。未熟な研修医が当直をしていたために手遅れとなったケースが報道されたことが背景にあります。こうして、ベテランの医師が当直をするようになり、ベテランは昼も夜も激務という状態になります。

しかし、と筆者は言います。研修医は自分の技術の未熟さをわかっているので、重症の患者であればベテランを呼んで対応してもらいます。重症の患者は毎晩発生するわけではないので、そのためにベテランに毎日当直させるのはあまりに無駄が多い、と。

世の中、勧善懲悪の好きな人は多いですが、実際にはたった一つの敵を倒せば問題がすべて解決、などということはありません。現在の医療問題に関する「処方箋」を求める人は決して満足できない本だと思いますが、筆者の意見に賛成するにせよ、反対するにせよ、医療についてさまざまに考える切り口を与えてくれる本だと思います。

現代ビジネスに、久坂部氏自身の、この本の「実践編」のような記事があります。

  • 元医師の父が選んだ「自然死」延命治療は必要ない---医師の親子が考える「理想の死に方」 (現代ビジネス)【前編】 【後編】

久坂部氏の御父様も元医師で、延命治療を拒み続けました。その顛末が載った記事です。これを読んで、興味を持たれたら「医療幻想」を読む、というのもいいかと思います。

最後に、作家としての久坂部羊氏の作品を紹介しておきましょう。私が読んだのは次の2冊です。

先に言っておきますが、どちらも「爽快な読後感」はないです。医師が書かれただけあって、痛みの表現がとにかくリアルです。ジャンル的にはミステリーと含まれるかもしれませんが、個人的にはややホラーに属する部分がある気がします。

2012年5月19日 (土)

ラー油の錯覚

ちょっと前にtwitterで流れてきた話ですが。

「ペンギン夫婦がつくった石垣島ラー油のはなし」という本の、楽天ブックスでの評価がひどいことになっています。

楽天みんなのレビュー:ペンギン夫婦がつくった石垣島ラー油のはなし

とにかくもう、「ラー油と間違えて買ってしまった。本だとは思わなかった。紛らわしい。返品不可はありえない」の嵐です。中には5冊も買ってしまった人もいます。

結果、いまは書籍紹介のページ

※こちらは本です。ラー油ではありません。

と書いてある状態です。(でもこれも目立つ書きぶりではないので気付くかどうか…)

さて、このように間違えた人達をバカの一言で切り捨てることもできるわけですが、この本を読むとそうも思えなくなります。


中にはほとんどありえないような錯覚を起こす例がいくつも載っています。例えばこの動画。

The "Door" Study

ある男性が、白髪の男性に道を教えてもらっています。途中で看板が運ばれてきて、2人の間を通過します。通過した後、白髪の男性は引き続き男性に道を教えるのですが、教えてもらう男性は看板が通過した時にまったく別人に入れ替わっているのです。しかし白髪の男性は全然それに気付きません。

このような事例が本書にはいろいろと載っており、(上の動画を含め)そのうちのいくつかは以下のURLで見ることができます。そして、それらの多くが「何でこれに気付かないの?」という、ラー油本と同じことが起こっていることを見て取ることができます。

http://www.theinvisiblegorilla.com/videos.html

しかしそれにしてもラー油本の件、気の毒なのは本の著者ですね。表示が紛らわしいのも返品不可なのも楽天のシステムの問題であって、従って星1つにしている人達はすべて楽天のシステムを星1つと評価しているのに、あたかも本自体の評価が低いようにしか見えなくなってしまっています。

ということでラー油と間違って買ってしまった方には同情はしますが、レビューに怒りをぶちまけるのは違うよなあ、とは思うわけです。

ちなみにamazonは13レビュー中星5つが12件となっています。


こちらの本は未読なので、機会を見て読んでみたいですね。

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